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インドのインディーシーンが盛り上がり始めていると言われ始めて、数年が経つけれども、まだまだ課題も多い。

その一つが、世界に打って出て名声を獲得したインド人インディーアーティストが少ないということ。

世界で知られているインド人ミュージシャンといえば、ボリウッドや伝統音楽のジャンルにほぼ限られるのが現状だ。

ただ過去にさかのぼると、そういったインド人アーティストが全くいないわけではない。

その一人が、70年代のアメリカとヨーロッパで活躍したジャズシンガーのAsha Puthli(アシャ・プスリ)。ジャズやディスコ、ロックといった要素を含む楽曲を繊細で透明感のある歌声で歌い上げた彼女。欧米の著名人やメディアによって、「アレサ・フランクリンがラーガと出会ったよう」、「エラ・フィッツジェラルドやディー・ディー・ブリッジウォーターと並ぶ女性ジャズシンガー」といった高い評価を受けた。

またヨーロッパに拠点を置いていた時には、グラムロック界隈のインフルエンサーたちと共に作品を作るなど、当時人気だったオルタナシーンとの距離も近いアーティストだった。

しかしそんな彼女も当初は、ムンバイのナイトクラブで歌う無名の歌手に過ぎなかった。

「ナイトクラブで終わるつもりはなかった」と話す彼女は、どのようにして欧米での人気を獲得するにいたったのか?

彼女の作品と共に紹介していきます。

■キャリアのきっかけ

ムンバイで生まれたプスリは、インドの伝統音楽や踊りを学ぶ傍らで、オペラ歌手としての教育も受けたという。インドの伝統文化と欧米のカルチャーの両方に、幼いころから親しんだ形だ。

そしてアメリカのラジオ「Voice of America」でジャズに触れたことをきっかけに、ムンバイのナイトクラブで働き始める。

ここでの出来事が、彼女が世界に飛び立つきっかけとなった。

当時の「ザ・ニューヨーカー」でコラムニストを務めていたインド人作家、Ved Mehtaは、プスリのステージングに魅了されてしまう。「美しくて、機転の利く女の子だと思った」(Mehta)。

そしてMehtaは1970年、当時のインドの社会状況をまとめたエッセイ集「Portrait of India」の中で、彼女の魅力について紹介したのだ。

■ニューヨーク時代

この本で紹介されているプスリに関する記述が、アメリカのコロンビア・レコーズのJohn Hammondという人物の目にとまった。

Hammondは、ボブ・ディランやブルーススプリングティーン、ビリー・ホリデイなどの一流アーティストを担当した伝説的なプロデューサーだ。

才能あるアーティストを新たに発掘しようとしていた彼は、彼女に興味を持ち、すぐさまデモを取り寄せたという。

当時のプスリは、ダンスの奨学金によってニューヨークを訪れていたものの、ビザの期限が迫っていたため、間もなくムンバイに戻らなくてはならない状態だった。そのためHammondからのスカウトは渡りに船。すぐさま彼の力添えによってCBSレコーズと契約した。

まずHammondは、アヴァンギャルドジャズのパイオニア、オーネット・コールマンによるオーディションにプスリを送り込んだ。コールマンは当時、次の作品に向けてユニークなシンガーを探していたという。

コールマンに認められた彼女は、「What Reason Could I Give」と「All My Life」の2曲でリードシンガーを務めた。

この2曲を含むアルバム「Science Fiction」が1972年にリリースされると、プスリは、ニューヨークタイムスなどの大手メディアから高い評価を獲得。「エラ・フィッツジェラルドらと並ぶ女性ジャズボーカリスト」と評するメディアも出てきた。

しかしアヴァンギャルドジャズという音楽は、ボーカリストにとって活躍の機会が多いジャンルではなかったこともあり、これ以上の発展を望むことは難しい状態だった。

そしてプスリは、活躍の場を求めて拠点をヨーロッパに移すことにした。彼女の本格的なキャリアは、ここから始まることになる。

■ヨーロッパ時代

移住直後の1973年、プスリは自身の名前を冠したソロデビューアルバム「Asha Puthli」をリリースした。

この作品は、T・レックスやエルトン・ジョン、デヴィッド・ボウイなどによって当時人気を博していたグラムロックの影響を受けたアルバムだ。プロデューサーにはエルトン・ジョンの作品を担当したこともある人物を迎えた。

またデヴィッド・ボウイやフレディー・マーキュリーのメークアップアーティスト、グラムロック専門のフォトグラファーを迎えてカバーアートを作成している。

iTunes(Asha Puthli)

さらに1976年にはサードアルバム「The Devil is loose」をリリース。このアルバムはニューヨークタイムスはじめとするメディアから「最高傑作」、「ソウルやディスコのマスターピース」といった高い評価を受けている。

iTunes(The Devil is loose)

さらに1979年にリリースした4枚目のアルバム「Asha L’Indiana」では、当時人気だったディスコミュージックをフィーチャー。1曲目の「I’m Gonna Dance」は、フロアアンセムともいえるヒット曲となった。

iTunes(Asha L’ Indiana)

■人気アーティストによるカバー・サンプリング

彼女自身は、1982年のアルバムを最後に作品のリリースが一旦途絶えてしまう。しかし2003年にはアメリカのベーシスト、ビル・ラズウェルのプロデュースによって、楽曲「Shive Stone」をリリースした。

さらに2005年には、Stratusというエレクトロニカのデュオによる楽曲「Stratus – Looking Glass」にリードボーカルとして参加。久々にUKチャートにランクインしている。

また50 Centをはじめとする人気アーティストらにサンプリングされている。

彼女のように、アメリカやヨーロッパをまたにかけて活躍したインド人ポップシンガーは本当に珍しいのではないでしょうか。プスリは2006年、メディアのインタビューの中でこう話しています。「私はとてもグローバルな人間。心はアメリカで、魂やルーツはインド、キャリアはヨーロッパ、という具合にね」。

※参照情報
Asha Puthli
Asha Puthli at the GRAMMY Museum
BARGAIN VINYL: ASHA PUTHLI’S COSMIC DISCO ANTHEM ‘SPACE TALK’
Asha Puthli, an Indian Singer Who Embraces Countless Cultures